笑い声を遺して
近鉄、オリックスで監督を歴任された仰木彬さんがご他界された。まだ70歳という若さで。
監督業は大変ハードなものであるというのは言われていること。昨年の合併球団監督に就任した際にも「グランドで死ねれば本望」という言葉で周囲の心配する声を笑い飛ばした。
合併前の両球団の監督を歴任されたからといってもそれは当然ながら同時ではなく、別々にである。
しかし共通することは、仰木さんが監督をされた時期、監督をされたチームからは日本人メジャー選手が次々と旅立っていった。それは仰木さんの戦術や戦略のように、常識や先例にとらわれることなく、「できない」がスタートではなく「できるかもしれないならやってみよう」の気持ちだったんじゃないかと思う。
そういった空気が在任中や退任後も残り、野茂、イチロー、長谷川、吉井、田口といった各選手のメジャー挑戦へつながっていたんだと思っている。
あの伝説の10.19。当時の12球団で唯一日本一経験の無い球団が日本一に挑戦する資格を得るためのリーグ優勝に王手をかけた日。8ゲーム差?を逆転できるか?!日本中が川崎球場のダブルヘッダーに注目していた。
未曾有の災害をもたらした阪神淡路大震災。そして「がんばろうKOBE」でリーグ優勝、翌年は日本一。
仰木さんの行くところには切ないほどの感動があった。
それだけじゃない。明るさも振りまける人だった。登録名「イチロー」。登録名変更は今では珍しいことではないが、当時としてみれば名前の漢字を変えるだけならあっても、カタカナ表記という珍しさ。そしてイチロー選手の素質を見抜いた慧眼。全てが今のプロ野球に影響を残している。
「パンチ(佐藤)」。本名に入っていない「パンチ」というファンにも呼ばれた愛称を登録名にしてしまう思い切り。全てが楽しく、そして楽しませることにつながる稀代のエンターテイナーだった。
今でも仰木さんで思い出すことがある。それはパンチさんのプレーがらみなんだけど。
当時のパンチさん、なんとかガラガラのスタジアムを盛り上げようとして、お立ち台に上がったときは「オリックス・ブルーウェーブ!並びにこのパンチ佐藤のために!今日は13万5千人のお客様(観客数は試合によって変更)!ありがとうございます!!」とやっていた。超満員でもそんなに入るわけが無く、その10分の1も入っていないのだが。
そのパンチ選手がある試合でデッドボールを食らった。当りはそんなに酷くないのだがパンチ選手は倒れこんで立ち上がれない。慌てるベンチ。当時監督だった仰木さんもベンチから駆け寄ろうとする。
するとそのときだ、パンチ選手は勢いよく立ち上がり、1塁へ向かって全力疾走したのだ。
大爆笑する観客席、そしてベンチ。仰木さんも大笑い。これは「プロ野球珍プレー好プレー」で放送されたのだが、そのときの仰木さんの笑い声の「あっはっはっはっは!あ〜っはっはっはっは!!」が忘れられず、僕が「仰木彬さん」で思い出すのは、今でもこの笑い声だ。
一時期は低迷する阪神タイガースの監督候補になったりして、その監督手腕は高く評価されていたんだと思う。
笑顔、ポジティブ、そして勝負への執念。人を惹きつける、人を引っ張る。それはどういうことなのか?理想の上司にも上げられるであろう雰囲気。当時のパ・リーグへの注目度を確実に上げ、メディアや世間へも訴えかけたその貢献度は計り知れない。
今までプロ野球のために尽力され、最後の恩返しのように合併球団という難しいチームを束ねる監督業を勤め上げ、さぁこれからは今まで以上の高い見地からプロ野球を楽しく観てほしい。そう思っていた矢先に天国へ召されるなんてあんまりだ。早すぎるよ。
『不世出の魔術師』仰木彬さんは『仰木マジック』とまで言われた魔法を使い、周りが驚く早さで自らも隠してしまった。僕達の心の準備も出来ないうちに。
今でも僕の耳には仰木さんの大きくて豪快な笑い声が残っている。きっとこれからも天国から好プレーに拍手を送りつづけてくれると思う。
名監督、名伯楽、稀代の戦略家・・・・・仰木彬さんのご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
監督業は大変ハードなものであるというのは言われていること。昨年の合併球団監督に就任した際にも「グランドで死ねれば本望」という言葉で周囲の心配する声を笑い飛ばした。
合併前の両球団の監督を歴任されたからといってもそれは当然ながら同時ではなく、別々にである。
しかし共通することは、仰木さんが監督をされた時期、監督をされたチームからは日本人メジャー選手が次々と旅立っていった。それは仰木さんの戦術や戦略のように、常識や先例にとらわれることなく、「できない」がスタートではなく「できるかもしれないならやってみよう」の気持ちだったんじゃないかと思う。
そういった空気が在任中や退任後も残り、野茂、イチロー、長谷川、吉井、田口といった各選手のメジャー挑戦へつながっていたんだと思っている。
あの伝説の10.19。当時の12球団で唯一日本一経験の無い球団が日本一に挑戦する資格を得るためのリーグ優勝に王手をかけた日。8ゲーム差?を逆転できるか?!日本中が川崎球場のダブルヘッダーに注目していた。
未曾有の災害をもたらした阪神淡路大震災。そして「がんばろうKOBE」でリーグ優勝、翌年は日本一。
仰木さんの行くところには切ないほどの感動があった。
それだけじゃない。明るさも振りまける人だった。登録名「イチロー」。登録名変更は今では珍しいことではないが、当時としてみれば名前の漢字を変えるだけならあっても、カタカナ表記という珍しさ。そしてイチロー選手の素質を見抜いた慧眼。全てが今のプロ野球に影響を残している。
「パンチ(佐藤)」。本名に入っていない「パンチ」というファンにも呼ばれた愛称を登録名にしてしまう思い切り。全てが楽しく、そして楽しませることにつながる稀代のエンターテイナーだった。
今でも仰木さんで思い出すことがある。それはパンチさんのプレーがらみなんだけど。
当時のパンチさん、なんとかガラガラのスタジアムを盛り上げようとして、お立ち台に上がったときは「オリックス・ブルーウェーブ!並びにこのパンチ佐藤のために!今日は13万5千人のお客様(観客数は試合によって変更)!ありがとうございます!!」とやっていた。超満員でもそんなに入るわけが無く、その10分の1も入っていないのだが。
そのパンチ選手がある試合でデッドボールを食らった。当りはそんなに酷くないのだがパンチ選手は倒れこんで立ち上がれない。慌てるベンチ。当時監督だった仰木さんもベンチから駆け寄ろうとする。
するとそのときだ、パンチ選手は勢いよく立ち上がり、1塁へ向かって全力疾走したのだ。
大爆笑する観客席、そしてベンチ。仰木さんも大笑い。これは「プロ野球珍プレー好プレー」で放送されたのだが、そのときの仰木さんの笑い声の「あっはっはっはっは!あ〜っはっはっはっは!!」が忘れられず、僕が「仰木彬さん」で思い出すのは、今でもこの笑い声だ。
一時期は低迷する阪神タイガースの監督候補になったりして、その監督手腕は高く評価されていたんだと思う。
笑顔、ポジティブ、そして勝負への執念。人を惹きつける、人を引っ張る。それはどういうことなのか?理想の上司にも上げられるであろう雰囲気。当時のパ・リーグへの注目度を確実に上げ、メディアや世間へも訴えかけたその貢献度は計り知れない。
今までプロ野球のために尽力され、最後の恩返しのように合併球団という難しいチームを束ねる監督業を勤め上げ、さぁこれからは今まで以上の高い見地からプロ野球を楽しく観てほしい。そう思っていた矢先に天国へ召されるなんてあんまりだ。早すぎるよ。
『不世出の魔術師』仰木彬さんは『仰木マジック』とまで言われた魔法を使い、周りが驚く早さで自らも隠してしまった。僕達の心の準備も出来ないうちに。
今でも僕の耳には仰木さんの大きくて豪快な笑い声が残っている。きっとこれからも天国から好プレーに拍手を送りつづけてくれると思う。
名監督、名伯楽、稀代の戦略家・・・・・仰木彬さんのご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。