忘れずに
それでも東名高速道路は一部が崩落し、道路交通網に大きな影響があった。
15年前のあの日、コタツに入って朝飯食ってたらテレビの画面が変わり、「どこだ?」と思いながら画面の向こうから伝わる光景に言葉を失った。
職場に行ってもいつもと違う雰囲気だった。
東海地震が心配される静岡という土地に住んでいるので地震のニュースが流れるたびに東海地震が来たら・・・・・という想像を頭の中でするようになってしまっている。
関西に親戚が多く、妻の実家も関西、友達も関西に多く、今でこそ関西の方が他人ではない自分になったが、当時は関西に知り合いはいない。それでも他人事とは思えなくて、訳も分からず心配で仕方なかったことは覚えている。
仕事の関係でうちの職場からも震災復興に向かって行った友人がいる。彼は芦屋で仕事をしたようだ。
俺も第1班が帰り次第、第2班として向かうことになっていた。結果的に、地元の方々のご努力もあり、俺は関西に行ってお手伝いさせていただくことは無かったのだが、震災から半年以上経った当時でも怖さは感じていた。
冒頭の静岡市も揺れた地震は我が家の付近は震度5強であったという。それでもあの揺れである。震度6強とか震度7だったらどれほどだろう?それは想像するのも嫌になる話である。
備えあれば憂い無しとは災害の際によく聞く話であるが、備えていても敵わない場合だってある。それでも備えるしかないのであろう。今は家族を守る立場として自分の出来ることなどを考えている。そのせいか、俺は関西に行く度に今でもどこかで震災のことを思い出す。それはきっとこれから先も変わらないんだと思う。
阪神淡路大震災でお亡くなりになった方のご冥福、そして被災者の方の物心両面でのご回復と復興を心からお祈り申し上げます。
15年前のあの日、コタツに入って朝飯食ってたらテレビの画面が変わり、「どこだ?」と思いながら画面の向こうから伝わる光景に言葉を失った。
職場に行ってもいつもと違う雰囲気だった。
東海地震が心配される静岡という土地に住んでいるので地震のニュースが流れるたびに東海地震が来たら・・・・・という想像を頭の中でするようになってしまっている。
関西に親戚が多く、妻の実家も関西、友達も関西に多く、今でこそ関西の方が他人ではない自分になったが、当時は関西に知り合いはいない。それでも他人事とは思えなくて、訳も分からず心配で仕方なかったことは覚えている。
仕事の関係でうちの職場からも震災復興に向かって行った友人がいる。彼は芦屋で仕事をしたようだ。
俺も第1班が帰り次第、第2班として向かうことになっていた。結果的に、地元の方々のご努力もあり、俺は関西に行ってお手伝いさせていただくことは無かったのだが、震災から半年以上経った当時でも怖さは感じていた。
冒頭の静岡市も揺れた地震は我が家の付近は震度5強であったという。それでもあの揺れである。震度6強とか震度7だったらどれほどだろう?それは想像するのも嫌になる話である。
備えあれば憂い無しとは災害の際によく聞く話であるが、備えていても敵わない場合だってある。それでも備えるしかないのであろう。今は家族を守る立場として自分の出来ることなどを考えている。そのせいか、俺は関西に行く度に今でもどこかで震災のことを思い出す。それはきっとこれから先も変わらないんだと思う。
阪神淡路大震災でお亡くなりになった方のご冥福、そして被災者の方の物心両面でのご回復と復興を心からお祈り申し上げます。