序曲
「申し訳ありません。」、「期待していなかったと思いますけど。」
それはお立ち台に呼ばれた選手が語るはずのない言葉だった。なにが彼にそう言わせたのだろう。それを考えると俺は自分を反省せざるを得なかった。
それはお立ち台に呼ばれた選手が語るはずのない言葉だった。なにが彼にそう言わせたのだろう。それを考えると俺は自分を反省せざるを得なかった。
チームは低迷している。自身も怪我に見舞われている。相手チームは赤星シフトという極端なシフトを敷く。当然盗塁は警戒される。他の俊足選手がランナーでもクイックしない投手が赤星選手のときはクイックで投げる。
様々に追い込まれている中で赤星選手は戦っている。試合だけではない。積み重ねた盗塁で贈ってきた車椅子の件では心無い出来事もあった。
選手会長という立場でチームの成績の責任を考え、それでも甲子園に詰め掛けるタイガースファンに勝利の六甲颪を歌ってもらうことができなかった。自分はフル出場できない。責任感の強い選手だからこそ出た懺悔の言葉だった。
俺はこのお立ち台を昨年8月終盤の球児投手の涙のお立ち台と重ねて見てしまった。
あのとき球児投手は「ファンの皆さんも悔しいと思いますが、選手も一生懸命やっていますので。」と語った。自らを含めたチームの抱える悔しさをファンに訴えたのが球児投手なら、その悔しさを小さな体で一身に背負い受け止めていくのが赤星選手だった。
悔しさを共有し、一体となって戦おうとして訴えた球児投手のひと言でチームは劇的な変化を見せた。それはファンの不安も不満も抑え、それをプラス方向に反作用させて勝ち進んでいった。
それに対して赤星選手は悔しい思いを受けるだけ受け止め、その逆境に耐える力をエネルギーに変えるかのような佇まいであった。
この姿を見て俺は知らず知らずのうちに慣れや軽率になっていたかもしれないこのブログの記事について反省していた。
ブログを始めて1年目は書ける喜びで続いた。2年目はそれを発信する喜びで続けることができた。3年目は続ける喜びで続けられた。4年目の今、どこかで慣れになっていたかもしれないと感じだ。
ファンとして選手やゲームを上から見てしまっていないだろうか。高みの見物ではそこに感動は生まれない。選手と同じ目の高さで一緒になって戦うことができているだろうか。もし万が一、選手にこのブログを見られたとしても励みに思ってもらえるだろうか?前向きという言葉にとらわれ、正確に自分の思いを表現できているだろうか?
1ファンとしても非常に考えさせられる赤星選手のお立ち台であった。
報道では金本選手が他の選手への走塁を含めた積極性の大切さを投げかけた。でも俺の中では赤星選手のお立ち台こそが、昨年の球児投手のお立ち台と同じくらいの衝撃として残った。
体が小さいからプロでは無理という評価を覆してプロになった。引っ張れない打撃と言われながらも1年目から出場を続けた。「新庄選手の穴は僕が埋める。」と宣言したとき、誰もが疑ったが違う形で穴を埋めた。日本球界に盗塁できる選手の貴重さを改めて知らしめた。
様々な困難があって、それを努力と気迫で乗り越えてきた。だからあのお立ち台で見せた悲しみは次の喜びへの序曲であるはずだ。
信じてくれたら裏切らない。裏切らないために努力する。その結果が信じた側の想像を上回る結果となって返ってくる。こんなに凄い選手が選手会長であるチームである。阪神タイガース、このまま終わるはずはない。
様々に追い込まれている中で赤星選手は戦っている。試合だけではない。積み重ねた盗塁で贈ってきた車椅子の件では心無い出来事もあった。
選手会長という立場でチームの成績の責任を考え、それでも甲子園に詰め掛けるタイガースファンに勝利の六甲颪を歌ってもらうことができなかった。自分はフル出場できない。責任感の強い選手だからこそ出た懺悔の言葉だった。
俺はこのお立ち台を昨年8月終盤の球児投手の涙のお立ち台と重ねて見てしまった。
あのとき球児投手は「ファンの皆さんも悔しいと思いますが、選手も一生懸命やっていますので。」と語った。自らを含めたチームの抱える悔しさをファンに訴えたのが球児投手なら、その悔しさを小さな体で一身に背負い受け止めていくのが赤星選手だった。
悔しさを共有し、一体となって戦おうとして訴えた球児投手のひと言でチームは劇的な変化を見せた。それはファンの不安も不満も抑え、それをプラス方向に反作用させて勝ち進んでいった。
それに対して赤星選手は悔しい思いを受けるだけ受け止め、その逆境に耐える力をエネルギーに変えるかのような佇まいであった。
この姿を見て俺は知らず知らずのうちに慣れや軽率になっていたかもしれないこのブログの記事について反省していた。
ブログを始めて1年目は書ける喜びで続いた。2年目はそれを発信する喜びで続けることができた。3年目は続ける喜びで続けられた。4年目の今、どこかで慣れになっていたかもしれないと感じだ。
ファンとして選手やゲームを上から見てしまっていないだろうか。高みの見物ではそこに感動は生まれない。選手と同じ目の高さで一緒になって戦うことができているだろうか。もし万が一、選手にこのブログを見られたとしても励みに思ってもらえるだろうか?前向きという言葉にとらわれ、正確に自分の思いを表現できているだろうか?
1ファンとしても非常に考えさせられる赤星選手のお立ち台であった。
報道では金本選手が他の選手への走塁を含めた積極性の大切さを投げかけた。でも俺の中では赤星選手のお立ち台こそが、昨年の球児投手のお立ち台と同じくらいの衝撃として残った。
体が小さいからプロでは無理という評価を覆してプロになった。引っ張れない打撃と言われながらも1年目から出場を続けた。「新庄選手の穴は僕が埋める。」と宣言したとき、誰もが疑ったが違う形で穴を埋めた。日本球界に盗塁できる選手の貴重さを改めて知らしめた。
様々な困難があって、それを努力と気迫で乗り越えてきた。だからあのお立ち台で見せた悲しみは次の喜びへの序曲であるはずだ。
信じてくれたら裏切らない。裏切らないために努力する。その結果が信じた側の想像を上回る結果となって返ってくる。こんなに凄い選手が選手会長であるチームである。阪神タイガース、このまま終わるはずはない。